王喜亮老師の著書「山西形意拳譜」によると、王喜亮老師は、その序文において
「余、幼き頃より武を嗜む。当時、余の家境はすでに逼迫して苦しく、且つ、良師の指導 も無かったために、習武の願いは、未だ実現していなかった」で始められている。趙玉祥 老師の話によると、「師父王喜亮は、1927年に吉林省輝南県に生まれた。家業は鍛冶 屋であったが、王師の少年時代は、当時すでに家境が逼迫していたので、武術を志す も、これを実現することはできなかった。」とのことである。
これは、王喜亮師が、始めから環境に恵まれて武術を志したのではなく、日々、武術を
学ぶこと望み続けた結果、武運が開けたということに他ならない。
1940年代のはじめ、王喜亮師は、年若くして単身吉林市に出て働くことになった。生
活は困窮し、日々の暮らしに追われる毎日が続いた。
しかし、王喜亮師は武を志すことをやめず、常に、何時の日か武術を学ぶことを固く心
に決めていた。
そのような王喜亮師にひとつの転機が訪れたのは、1946年のことであった。
1946年、王喜亮師は、吉林省、吉林市西大街にある、王記自動車修理工場修理部
の前に居を移し、そこで自動車修理を学んでいた。
王喜亮師の生活苦は、依然として続いていたが、武の志を失うこともなく、いつか名師
から拳を授けられることを夢見て、自動車修理を学んでいた。
或る日、王喜亮師が、吉林北山にある山西会館の前を歩いていると、そこで拳技を教
えている一人の名師に出会った。
後に、王喜亮老師の師父となる楊永尉師である。
「王喜亮師は、もともと身体が小柄であったため、最初の印象は、必ず少年だと思わ
れた。楊永尉師も、王喜亮師のことを『親にはぐれた少年』と思ったらしい」、趙玉祥老師 は語られる。
楊永尉師が訊く「少年よ(といっても、このとき王師は19歳)、親はどうした?」
「おりません」と王喜亮師。
「それなら、私のもとに来るがいい。そうすれば、食事くらいはできるだろう」
これが名師楊永尉師との最初の出会いであった。ここから王喜亮師の「武に捧げた生
涯」
が始まるのである。
楊永尉師は、形意拳の始祖、「神拳」李洛能の開門弟子(最初の弟子のこと)であり、
形意門の巨魁、車毅斎先師より直伝を授けられた樊永慶師より拳を学んだ山西形意門 車氏樊式を代表する拳士であり、その人格が清廉潔白であることは、広く知れ渡ってい た。
当時、楊永尉師は、吉林市に在住し、健康国術館を開設し、館を公開して、多くの徒に
拳を授けていた。
「ついに、我が師を得た」、王喜亮師はそう思っていた。
王喜亮師は、楊永尉師と知遇を得ることになったが、しかし楊永尉師は、はじめは拳
技について、王喜亮師に教えることはなかった。
楊永尉師は、生活については王喜亮師を慈しみ、王喜亮師もまた楊永尉師によく仕え
たが、楊永尉師の身辺の世話が、王喜亮師の日課となった。
王喜亮師は、拳を学びたいと考えていた。しかし、楊永尉師は教えない。こうして時間
が過ぎていくうちに、楊永尉門下に加われない王喜亮師は、多くの徒に授拳されている 楊永尉師やその門下生の姿を真似るようになっていった。
楊永尉師は、王喜亮師の武術に対する真摯な態度に心を打たれ、ついにその門下に
加えることを決意した。しかし、王喜亮師は常に楊永尉師の傍に仕えていたので、門下 の師兄弟からは、楊永尉師の弟子という扱いを受けず、どちらかと言えば、養子として 扱われ、誰も王喜亮師の功の深さを知る者はなかったのであった。
1950年、王喜亮師は、国家の召集に応じて、義勇兵として軍に身を投じ、朝鮮戦争
へ参加した。
楊永尉師の指導により、王喜亮師の功は、すでに深められていたので、戦場では、目
まぐるしく活躍するところとなった。
師の戦功は多く、王喜亮師は、何度も栄典を授与された。
前線、後方支援を問わず、また、銃火器、戦車等に対する専門知識は、義勇軍を大い
に支えることになった。
朝鮮戦争より帰国した王喜亮師は、ひとまわり大きく成長していた。後年、朝鮮戦争で
勝ち得た戦功により、王喜亮師は、若い兵士や将校らから畏怖される存在となlった。
当時、楊永尉師は、吉林省からハルピン市へと移り住まわれ、道里区に健康武術館
(後のハルピン市第四武館)を設立し、多くの徒に拳を授けていた。
王喜亮師が、師父楊永尉から武術を学び始めて数年が経過し、時、1953年に至ると
王喜亮師は、楊永尉師の真伝を深く会得した。そして師父楊永尉が逝去される1954 年、王喜亮師は、楊永尉師より、特別にその数十年にわたる、師の武術生涯における 武術心得、及び、その存在すら秘密にして伝えない拳譜のひとつひとつを交付され、王 喜亮師に、本門武術の発揚と後事を託された。また楊永尉師は、実子の如く慈しんだ王 喜亮師の身を安じて、「山西省清徐県王達村に居を構える王鴻を呼び、師に代わってそ の芸を伝えるように教えを請え」と王喜亮師に命じられたのであった。
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