快手 王鴻

 王鴻師は、正式には楊永尉門下の二師兄であったが、大師兄、楊守先とは親友であ
り、その門下において、最も拳技に優れ、徳も高かったので、楊守先師と共に楊永尉門
下の大師兄として、同門の師兄弟らから尊敬を集めていた。

 王鴻師は、山西省の技撃専家として有名であり、師はかつて1932年に、山西省の代
表として、南京中央国術館が主催した技撃擂台賽に参加し、その階級別散打部門にお
いて冠軍(優勝のこと)に輝き、宋鉄麟老前輩らから「快手」と称された。

 王喜亮師は、楊永尉師の臨終の際に、楊師より特別に、その数十年にわたる、楊永
尉師の武術生涯における武術心得、及びその存在すら秘密にして伝えない拳譜のひと
つひとつを交付され、本門武術を発揚し、広く伝えるように信託されていたが、楊永尉師
の遺命は、「山西省清徐県王達村に居を構える王鴻を呼び、師に代わってその芸を伝え
るように教えを請え」というものであった。

 王喜亮師は、師父の遺命通り王鴻師を呼び、教えを請うところとなった。しかし、王鴻
師は、すでに山西省に居を構えていたので、ハルピン市に長期に渡って滞在し、授拳す
ることは不可能であった。また、大師兄楊守先も、「王鴻が山西省に戻るなら、私も親友
と共に山西へ参りたい」と、ハルピンを後にする決意をしていた。

 そこで浮上してくるのが、後継者問題である。

 楊永尉師の武徳が慕われたためか、当時、ハルピン市では、楊永尉一門はかなりの
勢力を持っていた。しかし、楊永尉門下の大師兄と二師兄が共にそろって山西の地へと
参るということで、楊永尉師の後継者を誰にするのかということが、焦点となっていった
のであった。

 王鴻師は「確かに、私が本門を率いるのが楊永尉師父の遺志ではあるが、私はすで
に山西に居を構える身であり、また楊守先師兄も共に山西に来られると言われているの
で、このままでは折角一門を築き上げられた楊永尉師父の志を無駄にすることになって
しまう。そこでこの一門の後継者を決めようと思うが、後継者には当然一門を守る義務
が生じる。それにはかなりの実力が問われることになるであろう。したがって、私と楊守
先師兄が、この地を去るにあたって、門内で散打比賽を開催し、その勝利者を楊永尉一
門の後継者としたい」と一門の者達に通達した。

 こうして、門内の散打比賽は開催されることになった。

 比賽の主審は王鴻師であり、副審は、楊守先師であった。

 王喜亮師は、もともと楊永尉門下において、どちらかと言えば、楊永尉師の義子であっ
て弟子という扱いを受けていなかったので、誰も王喜亮師の功の深さを知る者はいなか
った。

 しかし、この事実とは裏腹に、王喜亮師は、着実に勝ち進んでいった。そしてついには
この散打比賽を制する所となったのであった。

 散打比賽で敗れた師兄弟達は、ある者は門内に留まり、王喜亮師を盛り立てていく者
もいれば、山奥に隠遁する者もあったが、ここに楊永尉一門は、王喜亮師が継承するこ
とになった。


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