講習会の最初は、豁打頂肘から始まる八極大架(八極拳)であった。
八極拳の風格は、「動如崩弓,発所炸雷,勢如破竹,疾似閃電」等の句に表現される
が、安天栄老師の豁打頂肘の踏み込みの速さは、雷のように速かったことを覚えてい る。
安天栄老師は、八極大架を指導するにあたって「豁打頂肘直闖,転風拐子朝太陽,臥
牛炮打撞牆,転回身猛撃襠・・・・・・・」というように、黒板に向かって、拳譜と歌訣を書い て、一字一句を、身振り手振りをつけて説明して下さった。
「歌訣」、それは、ひとつの門派が流伝として、後世へと先師の伝をそのまま継承させ
るために、秘伝・口伝の類を歌にしてまとめられたものである。
なぜ、拳譜や理論、歌訣等が重要であるかというと、これらを知るか、或いは知らない
かによって(当然、その要求通りに拳を練らなければならないが・・・・)、身体のつくりや 技術、身法等の様々な面で差がつくからである。
拳譜や歌訣というものは、本来先師から伝えられるべき者にのみに伝えられ、受け継
がれてきた身体のつくり方(練り方)の要訣や、実戦に臨んでの秘伝(この時、それを知っ ているか知らないかが、生死を分ける場合もある)等が書かれた奥伝の書や秘訣である (最近、中国語の原書の中に見かける機会が多くなったが、その内容の価値は少しも減 少することはない)。
拳理(門派特有の理論のこと)にしたがって拳譜や歌訣、そして字訣の要求を満たし、
更に意念をかけて練功を積めば、一見、同じ拳を打ち出しているように見えても、その拳 の持つ意味や破壊力が違ってくるのである。
ここでは、拳の練り方について、歌訣からのアプローチと招式の名称からのアプローチ
を考察することにする。
八極大架中より一例を挙げるとするならば、「開弓式」である。八極大架の招式の中に
「開弓式」という招式があるが、これに対応する歌訣は「臥牛炮打撞牆」である。
先ず、歌訣からの練り方のアプローチであるが、開弓式についてのこの歌訣の解釈
は、以下の如くである。
「臥牛炮打撞牆」、この歌訣は、「臥牛炮」と「打撞牆」に分けられる。「臥牛」とは、もち
ろん「臥せた牛」のことであり、「炮」とは「火で炙る」の意である。これは即ち、「臥牛炮」 とは、「臥せた牛を火で炙る」ということを意味している。
なぜ臥せた牛を火で炙るのであろうか?
これは、実際に道端に牛が臥せてしまったときのことを考えてみれば理解できる。
この歌訣が謳われた当時の時代背景では、牛は農作業をするときの貴重な戦力であ
り、田畑の収穫を増やすための重要な家畜であった。
しかし、重要な家畜ではあるが、これが一度道端に臥せてしまうと、屈強な者たちが数
人がかりであっても動かすことは難しい。
そこで、臥せた牛を動かすために、動物が火を怖がるという習性を利用して、これを火
で炙るのである。松明をゆっくりと近づけることにより、臥せた牛を動かすのである。
これを、八極大架の開弓式に当てはめると、八極大架中の開弓式には、右腕を左方
向へ移動させる動作がある。ここの部分が「臥牛炮」という句に対応した動作であるが、 この動作を、臥せた牛に対して、あたかも松明をゆっくり近づけるように練れば、意念に よって導かれた氣を右腕の先、端々にまでめぐらせることができるのである。
次に「打撞牆」であるが「打撞」とは「打ち崩す」の意であり、「牆」とは「壁」のことであ
る。これは、開弓式で拳を打ち出すときは、「壁を打ち崩す」つもりで拳を出すということ である。
上記から解するに、「臥牛炮打撞牆」は、「臥牛炮」によって氣を蓄えて、「打撞牆」によ
ってこれを解放することになる。こは内功を重視する練法ともいえるであろう。このように して練られた拳は、ただ漫然と繰り返して練られた拳とは、異質のものとなることは、容 易に想像がつく。
次に、招式の名称からの練り方のアプローチであるが、開弓式の動作は、両腕を開く
ときの力の出し方が、弓を引く(開く)動作に似ているところから、その名が付いたものと 思われる。それでは、この招式を練るにはどのようにするかと言えば、実際に弓を引い たときにかかる負荷と同じような感覚をつかむように練るのである。
弓を引くには、「伸びあい」が重要であるという。これは、両肩の根節部分をよく伸ばす
ことに他ならない。根節部が伸び、勁が滞りなく通じれば、拳の威力も増強される。
そして、こうして負荷をかけて拳を練った後、牆を打撞すべく拳を打ち出すのである。そ
の勢は「弩弓の如く発せられる矢」の様でなければならないことは言うまでもない。
このように、套路中一つの招式を練るにしても、歌訣と招式の名称両面からアプローチ
でき、更にこれに加えて、拳理や理論を加えて拳を練れば、練功を積むにしても、その 門派の像が広がってくるのではないだろうか。
また、恐らくこのような拳の練り方は、秘伝の範疇に入るものと思われるが、その門派
特有の招式を正確に練るためには、どうしても不可欠なものではないだろうか。
安天栄老師の拳譜や歌訣、理論等の説明を受けて、筆者が感じたことは、こうした拳
譜や歌訣等の要求に練拳を合わせることの重要性とともに、それらに合わせることによ って、実際の練拳では、何を目的として、何をどのように練るのか、その目的によって練 拳方法も変えなければならないということである。
歌訣・拳譜・理論等の説明の他に、安天栄老師に霍氏八極拳伝統の楼椿・靠椿・靠
板・ヲ球(←ちょうきゅう)・鉄砂掌等の功法をも図解していただいたが、練拳の際に、これ らの練功法を併用すれば、その功が完成するのも速く、効果的であることは想像に難し くない。
功をどのように練るのか、筆者は、安天栄老師の指導を受けて、最近我が国におい
て、門派を問わず、実力派の老師達が、「それは形をなぞった練習にすぎない。それは 武術ではない。それを武術というためには、もっとその本質に目を向けなければならな い」と言われていた話を思い出す。
拳譜や歌訣、理論等の研究は、その門派の拳を理解するうえで、欠かすことのできな
いものである。我々が練拳をおこなうには、もっとそれらを研究する必要があるものと思 われる。
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