「大纏」。この技は「豁打頂肘」と並ぶ八極拳の代表的な技である。
筆者が未だ八極門に対して門外漢であった頃、八極門の先輩達が誇らしげに練習さ
れていた技である。
筆者にとって「大纏」への思い入れは深い。筆者がかつて八極対接を学んだ時、何度
も、何度も「大纏」で転ばされた。そのときに「大纏は八極拳の中で最も難しい技だ。大 纏ができるようになったら、他の八極拳の技はどのようなものでもできる。」と、筆者の老 師から言われたことを思い出す。
「大纏」という技は、八極門において、それくらい重要な技である。
安天栄老師に大纏をかけていただいた。筆者は、やはり何度も転がされた。他の講習
会参加者達も同様であった。
安天栄老師の大纏を受けて気付いたことが三つある。それは@手首の握り方、A足
の踏み込み、B勁が小さいこと、である。
先ず第一に手首の握り方であるが、安天栄老師は、大纏をかける際に、手首の内関
穴の付近に中指・薬指・小指の三指を垂直に立てて置き、更に猛力を以って(爪痕が残 るくらい)掴まれた。つまり敵の手首に拿穴(敵の急所を押さえること)を施すのである。拿 穴を施すことによって、敵の力を抜くのである。
筆者は、安天栄老師の大纏に、何度も抵抗を試みたが、腕の力が抜けてしまって抵抗
することができなかった。このとき筆者の額には、安天栄老師の拿穴のあまりの痛さに よって、脂汗が滲み出たことをいまだに覚えている。
安天栄老師に手首を掴まれて、手指の強いことは、八大招式の黄鴬双抱爪にも見ら
れるように、八極門では(他の門派でも同様に思われるが・・・)重要なことであることを、 筆者は再確認した。
八極拳は一般に、敵との攻防に関係なく、ただ勇猛に突っ込んで、一撃のもとに敵を
倒すという戦法をとるといわれているようであるが、筆者が受けた八極拳の印象は違うも のであった。それは、次の足の踏み込みのことにも関連するが、筆者が受けた八極拳の 印象は、敵との攻防において、敵の身体の一部を掴んだら拿穴、歩を進めれば暗腿、 拳を繰り出せば急所を撃つ、すなわち点穴といった技術が、敵との攻防に関係なくという どころか、これに対して緻密に計算されているかのようであった。
なぜ、筆者がそのように思うように至ったのかについて考えてみると、足の踏み込みと
暗腿について述べなければならない。
足の踏み込みについては、筆者が大纏について気付いたことの二番目に挙げたことで
あるが、ここでは、その踏み込みのことに関連させて暗腿のことについても述べてみた い。
先ず、足の踏み込みについてであるが、安天栄老師が大纏をかける際に、その足に
注目してみると、闖歩(足尖からねじり込むようにして踏み込む八極拳特有の歩法のこ と)を用いて踏み込まれていることが分かる。しかしここで注目したいのは闖歩だけでは なく、踏み込むときの足の鋭さと、その深さである。
僅か数センチの差ではあるが、それだけ深く、鋭く敵の股下に、足を踏み込ませること
によって、瞬間的に敵の身体を崩しているのである。
次に暗腿のことについてであるが、暗腿とは、一般に低くて見えない蹴りや、敵の足を
踏みつけて動けなくすることによって、敵の動きを封じる腿法、そして敵の死角の部分か ら、敵の身体を崩すための腿法などを挙げることができる。
当然大纏の中にも暗腿はあるが、上手く敵の身体を崩すためにも、鋭い踏み込みは
重要となってくる。
大纏に限らず、八極拳の暗腿には、このようなものが多いが、更に、所謂「囮(虚)」とし
ての暗腿もある。
我の腿を敵の腿に密着させて、その攻撃を封じる。こうして敵の攻撃を封じるための腿
法であるなら、普通の暗腿と何ら変りが無い。
確かに密着させた腿は同じ腿であるが、ここで重要なのは、暗腿は暗腿でも、その目
的が違うということである。つまり敵の攻撃を封じているのではなく、敵に腿を封じている ことを分からせるのである。特に敵の身体を崩す必要もない。敵の意識を下に向かせる ことが、その最大の目的であるということである。
当然、意識を下に向かせて上を打つことも可能ではあるが、それだけではなく、「囮(お
とり)」といった言葉の意味は、敵に、封じられた腿(我が封じた腿のこと)を抜かせること により隙を作らせるということである。我はこうした隙を作らせるために「囮」という罠を仕 掛けるのである。
人間の身体は、予期せぬ衝撃に弱い。例えそれが小さな小石であっても、認識がなけ
れば、これに躓いて転んでしまうことがしばしある。このような性質を利用して、もし、敵 が罠に引っ掛かったなら、我は鋭い踏み込みをもって敵の身体を崩すのである。
筆者が受けた八極拳の印象は、こうした八極拳の技法を知ることによって、一般的に
言われている八極拳の戦法の印象と違ったものになってしまった。八極拳の印象につい ては人によって様々であるが、筆者が安天栄老師に技をかけていただいたときに感じた ことである。ちなみに、こうした技法は、六大開の双纏手や八大招式の猛虎硬爬山、黄 鴬双抱爪、迎風朝陽手、八極応手拳第三路の中に見られる。八極拳の別の一面として 紹介したい。
さて、大纏のことについて、気付いたことの第三番目は、勁の小さいことである。
安天栄老師の八極拳に実際にお目にかかったとき、重厚で素朴な風格に、「老師の拳
技には、一体どのくらいの威力があるものか」と思いをめぐらせたが、筆者はこの後に思 い知らされることになる。
これは、筆者が出会った八極拳士に共通して言えることであるが、身体の密度が我々
とは違う。ちなみに安天栄老師の場合、その身体つきは、身長こそは低いものの、胸囲 が大きく、まさに八極拳を練り込んだ体つきであったことを覚えている。
安天栄老師は「剣」を得意とされ、中国では「剣仙」と称されている。霍氏八極拳には、
武器に六合大槍・行者棒・野戦刀・純陽剣等があるが、安天栄老師に槍と剣を示範して いただいた。
安天栄老師は、先ず手始めに剣の動作を一通り流して、剣の感触を確かめながら舞
われた。その動きがあまりに華麗であったために、筆者らは見とれてしまっていた。
安天栄老師は、筆者らの視線に気付かれると、「これは、師弟、趙玉祥に教えてもらっ
た剣だ」とおっしゃって、突然表演を始められた。
安天栄老師の剣は、確かに手元を見ると動いている。しかし、剣尖・刀身が目まぐるし
い速さで動いているので、残像だけが目に残り、本体がどこにあるのか見切れない。
筆者は、呆然とさせられたので、残念ながら映像を撮りそこなってしまった(槍術につい
ては撮影に成功した)。
勁が小さいことを述べるにあたり、話が逸れてしまったが、実は筆者が何に言及したい
かというと、武器を練ることの有益性である。
武器をものにするには、かなり小さな鋭い勁が必要となる。これは裏を返せば、鋭い小
さな勁を身に付けるには、武器を練るのが最も近道であるということである。
なぜなら、武器の動作は、一式、一式を正確におこなうには、動作が居着いたところ
で、瞬間的に必ず全身を引き締めなければならない。これを繰り返すことによって、小さ く鋭い勁を養成するのである。
勁の小さいことは、安天栄老師の八極拳の特徴のひとつであるが、大纏をかけると
き、安天栄老師は肘部を敵の腕に絡みつかせる(「纏」とは、「絡みつく」の意)。大纏はこ うすることによって完成するのである。
手首を掴むことにより敵の力を抜き、鋭く足を踏み込ませた暗腿を用いて、敵の身体
を崩し、そして肘部を敵の腕に絡みつかせる。大纏はこれら三点を一瞬に統合させるの である。
筆者は、安天栄老師の大纏に対して何度も抵抗を試みたが、無駄であった。それどこ
ろか、ついに左肩を痛める結果となってしまった。筆者の肩は、あの腕への一瞬の小さ な勁によって痛められたのだ。筆者はこの痛みが完治するまで、約一ヶ月を要すること になった。
安天栄老師の大纏には、非常に痛い思いをさせられたが、大きな収穫となった。筆者
なりの分析ではあるが、大纏は八極拳の技法の特徴を最もよく表していると思われるの で述べてみた。
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